不思議は日常の延長線上にある。
普段の暮らしから切り離されたものでも、わざわざ神秘的に加工する必要のあるものでもない。
確証のない夢の話や不思議な話をすると、嘲笑の意味でスピリチュアルと揶揄する人がいます。
確かにビジネス志向の強いスピリチュアリストはいるし、それに対して立場ある方々が苦言を呈しているのも見かけます。
けれど「どちらも」私はこういったことに触れる上での参考にしないことにしています。
(そもそも、どの世界にも度し難い話はある。ナナチは可愛いですね。)
スピリチュアルという言葉は、ラテン語のスピリタス(スピリトゥス…風・空気・息)に由来するのだそう。
目に見えないものとの関わりは、元々「その土地の風土と暮らしありき」で生まれるものだと思っているため、海外の言葉で、日本の自然信仰やその土壌で起こる事象を端的に語ること自体が難しいことだと個人的に考えているのも、一つの理由。
誰にだって、あの時のあれは何だったのだろう?とか、あの出来事は奇跡だったと想う経験の一つや二つはあると思う。私自身の日常にも、不思議なことはあります。
けれど、それが他の誰かにとっての特別になる必要を感じてはいません。
自分にとっては大切なことだったという感覚で、ノスタルジーとして記憶に…時に文章に残しておこうと思っているぐらいで、それで十分。
日常の延長にあるからこそ、本当に大切に出来るものだと考えています。
多分、満たされているんだろな。
時々、日常の出来事として、そういう話を書いてみたいと思うことがあります。
けれど「この作家はこういう感性の中で作品を作っているのだな」という、与太話程度に読んでいただけたら嬉しい。
ラベリング不要。
それらは私の体験であり、理解してもらう必要もありません。
それが世に言う境界線。人と人が不可侵を守り、安寧に暮らすためのマナー。
人間は、目に見えるもの・数値で測れるものだけに幸福を感じる生き物じゃない。
『数字に出ない・証拠もない・何なら楽しくもなかった。けれども、自分にとっては大切な経験だった』
そういうものを愛でられる余白を、心の中に持っておくことも、人としての大切な要素。
それが日常の延長の不思議と、安全に付き合っていくための要だと思うので、もし今後そのような記事を出したときは、読み物として適切な距離でお付き合いいただけたら幸いです。
昨年の今頃。お遍路を始めた頃の写真。