先頃の、八栗寺参拝の写真を載せていきます。
この頃は、まだ桜が咲いていました。
上の写真は多宝塔。金剛界の大日如来様を中心とした尊勝曼荼羅が納められています。
大師堂
以空上人様
八栗寺といえばお聖天様
大随求様もいらっしゃる
本堂には、本尊聖観音様
高松藩の祈祷所だったとのこと
奥の院には中将坊様
お寺の方々と信者の方々のご尽力で、美しく整えられている寺院様です。
金狐舎の作品を作るための材料を待つ。
未だデジタル化していない場所はあって、そういう方とは、必要ことをお願いするにあたり電話や手紙のやり取りをします。
手紙を描くのが好きなので・・・といっても、友人に出すわけではないため、文章としてはほんの一筆ほどのものですが
この時間は現代においては貴重なのだなと、楽しんでいます。
ほんの小さなものですら、届くのに1週間待つのが当たり前だった。私の幼い頃の記憶。
でも今は、待てないし我慢できない。というより、待たなくていいし我慢もしなくていいことが増えているから、そうしなければならない状況が理解できないのかもしれません。
私も大概、気が短くて待てない人間です。苦笑
何でもかんでも「今すぐに!」ではなく、届くのを待つ・熟すのを待つ・・・そんな時間を楽しむ感性を持ちたいなと思うのでした。
写真は黄色い文目。
じきに、五月が来ますね。
参拝をしていると、なぜそれをするのか?という問いに出会うことがあります。
内側から起こることもあるし、他の人から起こることもある。
素朴な疑問ですよね。
私が今感じていることのなかで言えるのは
どんな物事・どんな人を前にしても、そのものを通してでしか出会えない「私」がいるから、その私と向き合うためにやる
…ということでしょうか。
仕事、恋愛、家族、友人。
土地、歴史、幽霊やご神仏やご供養。
どんなヒト・モノ・コトを通しても、その向こうにいるのは「私」です。
その「私」に出会う機会を一番実感したのが、寺社仏閣を巡ることと、土地・祖先・家に向き合うということでしたので、続けているという具合です。
人間関係もそうですね。縁がある相手の向こうには必ず、その人との関係の中でしか出会えない私がいる。その私のことが好きだと思える関係を続けていく。大切にしていく。
お寺もそう。神社もそう。その他のモノについてもそう。目に見えていても、いなくても、相手の向こうにいる私に興味を持てるかどうかなのです。
感謝は、そこに生まれるものだと思うので。
そんなことに気付けていないときには「神や仏が何を救ってくれるのか」と思うこともありました。 振り返ってみると、それは丸ごと、私自身の命への不遜であったなと感じています。
みんながみんな、同じ結論に辿り着かなくてもいい。でも、本当に必要としている人が、門戸を開いてくれている安全な寺社仏閣と仏縁神縁をとおして、大切なことを思い出せたらいいなとblogを書いています。
聖域巡りが趣味のように思われているようですが、特別な場所になるかどうかは個人の縁にもよりますので、縁がある場所に行く・参拝を続ける形にしています。
でも、楽しければやってもいないし、それは他の人から見たら同じことかもしれませんね。
身近な人には、私の発見話に付き合ってくれてありがとうの気持ちでお話ししています。許してね。
聞いてくれたら嬉しいの。笑