本来、神様には姿形はないとされています。
仏様も、また同じという。
けれど、昔から動物の姿で神様が現れたという言い伝えは点在しているのです。白猿然り。鹿然り。時には鳥や海蛇など。民間の話を集めると、そういうものは沢山出てくるのでしょう。
個人的に、神使としてではなく神様そのものが変化した姿として動物が描かれるお話に惹かれる。
観音様も法華経普門品第二十五偈によれば、三十三のお姿を持ち、状況に応じて変化自在に姿を現し衆生を救済されるといいます。
神様仏様は祠やお堂だけにおられるのではなく、決められた形を保っている物質的な存在でもなく、人間の生活の周りに・もしくは、心の中に『満ちて』いるものなのではないかと感じることができる。だから、この手のお話が好きなのです。
これは余談だけれど、動物にしろお仏像や御神体にしろ、何かを通して本当に「神様だった」と思える体験をするときって、自分の中の神性・仏性に再会してるのではないかな。
身の回りを見てみると、宗教にまつわる面倒ごとを嫌煙しているだけで、神仏そのものを信じていないわけではない…という人は多いように感じます。
宗教の面倒な部分を回避して、信じているものと繋がろうとした結果が、一昔前のスピリチュアルだったのではないでしょうか。
(スピリチュアル=本来は神聖なものを指す言葉だけれど、この記事ではあえて統合しきれていない心霊感として使う)
昨今の怪談・オカルトブームにも、そういう側面はあると思う。夏になれば怪談…というのは昭和生まれの私の感覚なのだけれど、ある意味、自分の中の大切なものと切り離されないための膠のようなものなのかなと。
見えているものが全てではない。でも見えないものを信じることは社会的なメリットにならない。アングラで怪談の世界は、行き場のない心が立ち寄るのにほどよい場所。
あれは何だったか?その正解を他人にもらいたくないときって、あるものです。神様の話にしろ幽霊的な話にしろ、思い出として大切にしたいのよね。そんなときに、一人で民俗学のお話や怪談に耳を傾けるって、風情があって良いですよ。
勿論、神職・僧侶で神様や仏様について説かれる方の中にも、志高く人から慕われる方はいらっしゃいます。寛容にいろんなお話に耳を傾けてくださる方も。
しかし、そういうご縁がない時には「他人の手垢がつかない世界」を心に待つということが健全さに繋がることもある。
絵も、そういう心を寄せられる一つの世界だと考えています。
例え同じものを信仰していたとしても、心の中はお互いそれぞれに違う。育った環境・出会う人・自分の歩む道によって、その人だけのものになっていくのだというのは、肌で感じていること。
もとより、ここは八百万の神がおわせられます日本。土地の数だけ神様と人との距離感・世界観がある。小さな土着信仰を大切になさっている方もいる。
「知らないから描かない」は楽しくない。知らないけど何かを通して繋がることができるというのは、創作の醍醐味なんじゃないかな。
だから、創作として作家としての感性を通して神様を動物の姿で(仮象)表すという世界線を描くことが、お客様にも自分にも嘘がないと思った。親和性もあった。
白空庵でご提供出来る共通認識の最適解が、そこでした。
本当に見たいものは、お客様が見出してくれたらいい。水を差して野暮天になるのは、嫌。
心の中で、その人ご自身の神性・仏性に再会してもらえるものを描けたらと考えていますし
お互いの領域を大切に、気持ちの良いお取引が出来たら幸いです。
ただし
『この神様はキリストで稲荷で地底人が宇宙人だからくぁwせdrftgyふじこlp!!!』と叫ぶ人はご遠慮願います。
個人的な楽しみとしては良いと思うのですが
それを依頼で伝えられても、何も分からないのよ。
何一つ大切にしちゃいねーじゃねーか。ハイヤーセルフだ何たらゲートだと言う前に、あなた達の人生はどこにあるんだ。
…そこに神がいるとは思えない人間だもんで…
生まれ育った環境や地域、信仰、言いたくなければ何が好きで何を悲しく思うとかとか。
ご依頼いただけるのは嬉しいので、とりあえず
「あなたのお話?聞かせて…(杉元ヴォイス)」
神様がいるのだとしたら、そういうところに宿るんちゃうかな。