先日、神様が動物の姿で現れてくれたという世界線で、お稲荷様として狐様を描かせていただきました。
私が通うお稲荷様は、どちらかというと蛇っ気が多い。お像はあるものの、あまりお稲荷様=狐という印象はありませんでした。四国は狐をまず見かけないし、どちらかというとアナグマや狸が多いしね。
でも伏見に参拝した折に見た、お稲荷様そのものと共に狐様も大切にされている様子は圧巻で。感動いたしました。
山の信仰としてのお稲荷様。
稲作の信仰としてのお稲荷様。
商売の信仰としてのお稲荷様。
幾重にもある信仰のレイヤーによって、お稲荷様というものが出来ているのでしょうね。
そこに、お狐様もいらっしゃる。
狐は祟るから怖い・狐は動物だから怖いというけれど、帽子を被せてもらったり前掛けをつけてもらったり。伏見稲荷を歩くと、ここは狐と人間との距離が近いのだなと感じる。
そこには、信仰のない人間には分からない何かがあるのでしょう。手を合わせない他人が勝手を言うのは、野暮というもの。
何より、稲荷山は美しい。
そこで祈る人たちの姿も。
つべこべ感の無さが、私には嬉しかった。
こういう風景を切り捨てて、人間は心豊かには生きづらいんじゃなかろうかと思うのです。
だから私は、狐様が好きなんですよ。蛇も。狸も。お稲荷様も。
個人的に、山岳信仰の強い場所に住んでいるからか、特定の神様のご眷属=特定の生き物というより「その山に住んでいる者・祠を守っている者をご眷属・もしくは化身と捉える」ことのほうが馴染み深いのですが
特定の生き物をそうとすることで、人間側が神様を意識しやすくなっているのは、歴史の積み重ねもあり浪漫でもあり、素敵だと感じます。
伏見稲荷大社には、稲荷にまつわる様々な神様に加えて、ご眷属様そのものをお祀りした白狐社もある。
手を合わせる方々の背中に学ぶこともあり、狐様はこれからも描き続けたいお姿の一つです。
末廣大神の狐様