金狐舎の裏庭

夫婦円満と家内安全の縁起物を描いている、金狐舎のブログ。制作の様子や、報恩謝徳の寺社参拝の写真を上げています。

龍と私

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龍という図像に向き合うようになったのは、今から20数年前のこと。

 

高校時代、課題制作のモチーフを探していたときに、図書館の美術コーナーで見つけた水墨画の龍の描き方の指南書がきっかけだったと思います。

 

その連なりで、仏教美術からチベットのタンカ・哲学や心理学の本が並んだ棚をウロウロしては眺めていました。

 

幼い頃から、エミールシェラザート先生の妖精本や由貴香緒里先生の伯爵カインシリーズでマザーグースに惹かれ(同志はおるか?)魔術やアミュレットの『形あるところに力が宿る』世界線が好きだったのだけれど

 

色彩心理や民族的なタトゥーに至るまで、カタチに惹かれ続けるとは思いませんでした。

 

その後、鉱物と縁起物を扱うお店で働かせていただいたのだけれど、普通の方から背中に綾ある方まで、色んな生き方をする人とお話をさせていただきました。

「龍とは何かいいものであり、力を与えてくれる存在」

年齢や立場関係なく伝わっている、この共通認識が興味深かったです。

(山岳信仰における龍はまた別なのでしょうが、民間の俗信ではそうなのだなというお話です)

 

少し話が逸れますが、当時お世話になった方のお一人が鉱物の色彩や形状、ファセットに現れる幾何学を通して世情と人の心理に触れることをされており、その影響を多分に受けました。

鉱物一つを通して産地・歴史・世の動きと人間の意識など、様々な面に触れることができることを教わった。

心霊的なことではなくて(ここ大事)情報を知り、物の向こうにある状況に想いを馳せられるようになること・現実と共に生きていくことが大切なんだよと教えていただきました。

 

芸術や音楽や宗教に造作もあって、憧れた大人の人のお一人でした。

 

話は戻って、鉱物屋さんを辞めたその後。

 

先祖のルーツを追うようになり『情報は無くても身体が知っているだろう』という野生の感を頼りに徳島通いが始まります。

また、鉱物関連の信仰に触れたい・ストーンヘンジや海外の民話が好きだけど、古い自然信仰なら日本にも同じようなものがあるのでは?という仮定から、四国〜関西の気になる巨石や巨木を訪ねるようになりました。

 

(この時に柳田國男の「先祖の話」に出会い、性壁を捻じ曲げられたのはまた別のお話。)

 

結果、数年後に蓋を開けてみたら辿った場所にご先祖様が住んでいた足跡があり、今ここに至るのですが

 

その四国散策の時に、馴染みある山脈や遠目に見える雨雲・地層を眺めて『龍ってこういうところにいるのだよね』と感じたものが、私の中の龍の定義になっています。

 

そういうベースの上に今の私が成り立っているので、山があって川があって、大地があって…そこに龍たるものを感じる時間が好き。誰に認められなくても、いると思えばいるし、いないと思えばそれでいいというスタンスです。

 

 

その上で、なぜ龍が描きたいのか。

 

こういうのは頭で考えることではないけれど、シンプルに私が綺麗だと思う世界を共有したい・ここに暮らしている人たちと一緒に見たいからかな。

 

土地との時間は、その人にとっての思い出だから。

 

不可侵。他人が奪えないもの。

自分も誰かから奪えないもの。

 

龍がとても強く心に根ざしている人たちは、そういう空気の場所で育った人たちなのだと思う。山や海が近くにあってね…それってスピリチュアルではなくリアル。リアルがあるからこそ、その中にある目に見えないものにも触れられるのだと思うのです。

 

そういう時間を過ごした人のことは、龍も、もしかしたら見ているのかなと思うところはある。

 

そういう関係の前置きがあった上で、刹那的な記憶のエンカウントが起こる場所を作りたいのかもしれませんね。